2011年6月5日日曜日

門人(奥伝)への道

高牟礼は天保十二年(1841年)の初夏に、まず白川家の神主として修行するために神拝作法(しんぱいさほう)を学ぶための講習への入門を許可された。初夏の日差しが強くなって、昼時になると中天に太陽が輝くようにのぼっていた。高牟礼はこのとき、まだ数えで二十代最後の歳であった。
まずは神拝作法を学び、神主としての作法を身につけなければ、その後の奥伝の修行には進むことは許されない。白川家の屋敷の大広間で、先輩である講師陣から、高牟礼は今までした事のない、なれない神拝作法を学んでいた。白川家において毎月開催される修行というか講習会に参加し、勉学に打ち込んでいたのである。
そんな神拝式を学んでいる講習の合間にも、屋敷の奥の間へ行く、なにやら格式の高そうな面々が通り過ぎることがあった。高牟礼は白川家の屋敷の奥の間に入ることは許されていなかった。その方々が通るときには、一般の門人は頭を垂れて礼をし、道を譲らなければならない。一段と位の高いものとして扱われていた。
神拝作法の入門したての頃は、誰もが白袴を身に着けて、講習に臨んでいた。しかし彼らの大部分は浅黄(あさぎ)の袴を最初から身に着けていたし、中には紫の袴を着けている者もいた。そのうえ、神社の神主となるための資格を授けてもらうために神拝作法を学んでいるだけの普通の門人とは違って、彼らにはどことなく風格のある、言葉ではいえないが何ともいえない趣きがあった。

どんな方々なのかを高牟礼は、神拝作法を学んで地元の神社の神主を継ごうとしている先輩の三十代の門人である藤本孝七郎(ふじもと こうしちろう)に聞いてみた。
「あれが御簾内(みすうち)の御行(おぎょう)に参加しておられる方々どすや。」
「御簾内の御行とかいうものは、どんな御行なのどすか。」
「高牟礼はん、そんなことは聞くもんやおまへんで。この御行はな。聞いてはならず、見てはならず、言うてはならず、と言ってな。昔から、一切口外無用とされているものなんや。中に入ることを許された者しか、その内容は知らへん。わしは神拝作法だけ学びに来たんで中に入れへんから、内容は何も知らんのや。」
「ほう、御簾内の御行とは、そんな厳しいものなんどすな。」
「そやな。それにな。聞くところによるとやな。御行は学ぶのに時間がかかりますのや。普通の神拝式の御作法のように学んでできるものではおまへん。」
「そんなことなんどすか。部外者には、おおよそどんなものかすらも、よく分らないものなんどすな。」
「あの御行の中には、誰でも参加させてもらえしまへんのや。普通の神拝式を学んでいるだけの門人には、御行に参加させてもらえしまへん。それに御簾内の御行の方々は、一般の門人である、うちらより格式が一段上ですや。」
「そんな尊い御行どしたら、どないしたら参加させてもらえますのや。」
「それはな。ここで学んでいるうちに、これはと先輩方のお目にかなった人にだけ許されますのや。」
御簾内の御行の厳しさを聞いて、高牟礼は深く御簾内の御行に興味を持った。いつか御行というものに参加させてもらいたいと、さらに熱心に白川家に通いつめたのである。彼はこの御行に何とか参加させてもらえることを願ったのである。

高牟礼は月に数度は、白川家に通いつめた。努力の甲斐あって、一年ほどで神拝式に対する許状、烏帽子(えぼし)や浄衣(じょうい)の許状、風折狩衣(かざおりかりぎぬ)の許状などを賜ることができた。

時おり御簾内の御行に参加する面々が通り過ぎるときによく見てみると、彼らは門人のなかでも、特別扱いで、一段と格式が上の者として扱われていることが分った。御簾内の御行に参加できる者は、白川家で学ぶ門人たちのなかでも特別であった。御簾内の御行に参加が許された時点で、最初から浅黄の袴を身に着けることが許されていた。
しかも、その御行の内容については、外部からはまったく伺い知れない神秘的なものがあった。

神主としての高牟礼の修行振りを見ていた白川家の三十一代目の当主である資敬王(すけたか おう)は、傍らにいた御行を取り仕切っていた、当事の学頭である竹屋道輔(たけや みちすけ)に向かってこう言った。竹屋は二十年間ほども御行に参加している、神主出身の六十代の古参の門人である。
「高牟礼はなかなか熱心に参加しておるな。神主としての一通りの作法も身に着けたよってに、御簾内の御行に参加させてはどうやと思うのやが。高牟礼のあの様子なら大丈夫やないかな。」
竹屋は「そうでおまんな、高牟礼はんなら、御行を許してもよかろうと思います」と答えた。
御行において神事長を勤める六十代の鷹司貴子(たかつかさ たかこ)も、この意見に同調した。鷹司は堂上家(とうしょうけ)の娘の出身であり、やはり六十代の古参の門人である。
「そうどすな。高牟礼はんなら、参加してもろても問題ありませんでっしゃろ。新しい御行の参加者が必要でおますさかいにな。堂上家の出やおまへんが、かましまへんやろ。この御道(おみち)は才能のあるもんが必要でさかいに。」

高牟礼は白川家に入門してから、一年余り経ったころの天保十三年(1842年)に七種の拍手を賜り、はじめて門人として御簾内の御行に正式に参加することが許された。今までは入ることの許されなかった白川家の奥の間、祝之間(はふりのま)に通じる前の間に、高牟礼は入ることが許されたのである。
こうして高牟礼は、外からはうかがい知ることのできない、極秘の宮中神道である御簾内の御行に取り組みはじめたのである。このとき高牟礼は数えで齢三十になろうとしていた。

注1)
堂上家とは公家の家格の一つで、御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄のことである。ここでは公家一般のここと、ほとんど同義である。
公家とは広い意味では、昇殿が許された家である堂上家(とうしょうけ)と、許されていない地下家(じげけ)の2つに分けられる。しかし一般的に公家と言えば、堂上家を指している。昇殿が許された堂上家および殿上人を公家と呼ぶ慣わしは、江戸時代まで継続している。

注2)
白川家は神祇伯制度が衰退してきた江戸時代には、神拝式許状、烏帽子着用許状、浄衣着用許状、風折狩衣着用許状などの各種許状の発行や、各種の神社等への神号授与などを行っており、これを収入の糧としていた。

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