2011年6月1日水曜日

入門願い

京都の白川家の屋敷の玄関前に、一人たたずむ者がいた。それは夏だった。藤の花咲く初夏だった。屋敷の古い塀の上には、庭にある大木が枝を大きな手を広げるようにさし伸ばし、その枝からはおおい被さるように緑の葉を茂らせ、緑のしずくをしたたらせていた。初夏の日差しも強くなってきた頃で、もえいずる緑の葉が輝くように、きらめくように眩しくうつった。大木に絡みついた藤からは、紫の花房が塀の上まで垂れ下がってきていた。白川家の門をくぐって出入りする者らは、怪訝なおもむきで、そこに座るその男を傍から眺めながら出入りした。
それは、ここのところよく出入りしている二十代の若者である高牟礼(たかむれ)の姿であった。古川がそんな高牟礼を見つけて声をかけた。
「高牟礼はん。毎日、ご苦労なことやが、今日はもうあきらめて帰えんなはれ。」
「いや、何としても入門が許されるまで、毎日でも通います。」
そいってしばらく動かず、午前中は座ったままであった。
「お許し願えれるまで、毎日でも通います。」
そう言い残して帰っていった。
その次の日は雨であった。しかしながら高牟礼はやはり玄関先に座り込んでいた。
他の門人たちが、こうささやきながら玄関を出入りした。
「あの人は今日も来てはりますな。」

数日前、高牟礼清一(たかむれ きよいち)が商いのために白川家を訪れたとき、家の中にいるかねてからの知り合いである古川将作(ふるかわ しょうさく)に声をかけた。古川将作は、白川家の用人を束ねる家士(側用人)の代表である。
「古川はん、だんな様はおいでですやろか。」
「高牟礼はん、今日はどんな用で来たのじゃ。格別、用事はないはずじゃが。」
「はあ、古川はん。用事といいましても、新しい衣地が手に入りましたゆえ、白川様にいかがとお持ちいたしました。ご覧になるだけでもかまいませんので、ご覧になられてはいかがですやろ。」
「そないなことか、そないなら、だんな様にお聞きいたしてみまひょ。」
古びた時代を感じさせる屋敷の木造のこげ茶色の玄関先で、そんな話をした。白川家の当主であり、第三十代の神祇伯を継いでいた資敬王(すけたか おう)に、古川は取り次いだ。
家の奥の方から、白衣に袴をはいた白川家の当主、資敬が出てきて、新しい衣地をみることになった。屋敷の中の広い座敷に上がらせてもらい、畳の上に色とりどりの衣地を広げてみせた。ひととおり衣地をみてから、当主はこう言った。
「今着けておる着物もたいぶ擦り切れての。新しい袴が、欲しいと思っていたところじゃ。どれ、この紫の生地で袴を拵えてくれんかの。」
「はあ、かしこまりました。さっそく店に帰って仕立てることといたしやす。」

「ところで白川様、ここで少しお聞きいたしてもよろしゅうございますか。」
「何じゃ、きゅうにあらたまって。何なりと申せ。」
「何か、こちら様では尊い御行というものがあるそうにお聞き及びいたしやした。そんなものが本当におありなのでございましょうか。」
「どこで、そんな話を聞いてきたのじゃ。」
「いえ、こちらによく出入りしております門人の方々が話していますのを耳にしただけでございます。」
「あったとしたら、どうするつもりじゃ。」
「わたしは昔から神様に深い信仰心を持っておりやす。そんな尊いものでしたら、是非にでも門人に加えていただくことはできまへんやろか。」
「急に言われてもの。昔からどなたかの紹介がなければ、そんな話もしないものなのじゃ。」
「そこのところを、お願いできまへんやろか。」
「無理やな。そのようなものがあるかないかについても、昔から一切口外できないもんなのじゃ。今日のところは帰ってくれ。」
こう言われて、高牟礼は白川家を後にした。

奥の数寄屋造りの小部屋で、古めかしい文机に向かいながら、書き物をする手を休め、白川家の当主である資敬は、側にいた古川にこう問いかけた。
「あやつは、今日も来ておやるのや。今日は雨やな。」
江戸時代も終わりに近づいた時代、まだ騒乱の気配はなかったが、何か変化を感じさせる雰囲気が京都の都にも漂っていた。そんなおり、自分の屋敷の中にいた時の神祇伯(資敬王)は、傍らにいる控えの古川に問いかけたのである。
「はあ。そうどすな。今日も朝から、入門させてくれといって、玄関前に座り込んでおりまする。」
「まえは追い返えそうとし申したが、ここのところ毎日ともなると、こちらも不憫にも思えますので追い返せませぬ。今日は何も言わずに、そのままに放っておりまする。」
「毎朝、座り込みを始めてから、何日ほど経つかの。」
「もうかれこれ、十日ほどになりまする。」
「雨の日も来ておるのか。以前はなかなか暑い日もあったが、あの時も来ておったか。」
「ええ、毎日、午前中は玄関先で座っておりました。」
「それほど入門をのぞむのや。それなら、ひょっと、あやつ、ものになるやも知れぬの。」

当事、高牟礼清一は、呉服商として、京都で商いを営んでいた。そのおりに、神祇伯、白川家において、帝(みかど)のために尊い御行が行われていると聞きおよび、入門して、その御行を学びたいと志を立てたのである。
しかし、白川家に入門願いをすれども、江戸末期の当事のこと、身分も違い、どこの誰とも分からぬ者では、入門させることはできぬと断られてしまった。
門人にしてもらおうと、今日も白川家の玄関前に座り込んでいた。

高牟礼清一は、備前の国の都窪郡(現在の岡山県総社市)の農家に文化八年(1813年)に生まれた。清一は長男でなかったため、京都に出て呉服屋に丁稚奉公することになった。
高牟礼は商いの才能があったのだろう、やがては自分の店を構えるまでになった。そうこうするうちに、高牟礼の呉服商としての商売は、順調に発展して、京都の御所近くにある白川家出入りの呉服商人とまでなった。高牟礼の扱う衣地や仕立てがよかったからである。

そんなおり当事の白川家は、神祇官の神祇伯を名乗り、そこでは具体的な内容はよく分らないが、何か尊い御行というものが行われているこということを人伝えに聞いた。
以前より、神仏に信仰心の厚かった高牟礼は、せっかく京都に住み商いをして身をたてているからには、その尊い御行というものがあるならば、どんなものか是非にでも学んでみたいと秘かに心に決意したのである。
そこで白川家を商いで訪れた際に入門願いをしたのであるが、江戸末期の当事のことではあるが、身分も違う呉服商人では、入門させることはできぬと断られてしまったのである。
江戸時代も末期となると、身分制度も厳しくはなくなっていたが、それでも簡単には許されるはずもなかった。

だがこんなことであきらめる高牟礼ではなかった。高牟礼は出入りする門人にいろいろ聞いてみたが、御行の内容についてはどなたも口が堅く、何一つ聞き出せなかった。しかし門人になる条件については何とか聞くことができた。門人には、必ずしも公家や神社関係の神職でなくとも、入門を許されたものが何人かいたことが分った。白川家は必ずしも身分には関係なく、神様の道を求める者には入門を認めていることにも聞き及んだ。そこで、何としても、白川家で行われているという御修行の門人にしてもらうために、毎朝、白川家の古びた木の玄関前に座り込むことにしたのである。

ほどなくして、高牟礼の熱心さに根負けした白川家の当主から、御修行への入門を許された。だがその尊い御行といわれる御簾内の行は、格式が高く、すぐには入れてもらえなかった。まずは一通りの白川神道での神拝作法を学ぶことから、門人としての修行が始まったのである。

江戸時代末には正式な神職となるための神職免許は、当事京都にあった吉田家、あるいは白川家が免許の交付を行っていた。全国の神職は、どちらかの家から許状を得て、初めて正式の神職となることができたのである。

注)
最初の登場人物である高牟礼は、江戸末期から、明治初期にかけての人物であるから、もうすでにはるか昔に亡くなられている。その後に続く方々も、多くはすでに亡くなられて久しい。しかし秘密とされてきた道であるため、ここでの登場人物はすべて仮名とさせていただいた。

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